Every Breath You Take - 1

唯一書いた長編。
あの当時、長編の名手と呼ぶべき方が二人いて、憧れにも似た気持ちで。
まあ、そのお二方が実質双璧として君臨していたので、触発されて、というのはおこがましいところもありますが。
で。
これはいろんな意味で書き直したいと強く思う(特に、当時――2004/06――はリアルタイムで書いていたので、設定が基本的には出きった今)部分もありますが、あえて手を入れずに。
設定に反している部分は、当時の情報量からは確定できなかったので勘弁してください。
……で長すぎて入りきらなかったので分割中。
……してみたんですが、一日の分量をオーバーしてるっぽいのでどうしても入りません。
続きは日付変更後。




Epilogue II

 ――変わってない。

 それが再びこの地に降り立って、まず彼女が思ったことだった。
 いくつかのささやかな手続きを終え、トランク一つで佇む空港のロビー。
 異邦人たる少女を取り巻くのは、異国のざわめき。

 ――でも。

 初めてこの国にやってきたときと違うことがある。
 それは。

 ――思い出がある。

 かつて過ごした一年足らずの時間、その中での出会い――そして別れ。

 ――約束がある。

 帰ってきた、と彼女は思う。
 あの騒がしくも懐かしい日々に。

 ――大丈夫。

 そのとき、ふと名を呼ばれた気がして少女は辺りに目をやる。

「あ……」

 まず目に入ったのは、一番会いたかった友人の笑顔。軽く手を上げて自分も笑顔で返しながら、改めてその後ろに視線を動かせば、見知った顔がずらりとならんでいるのに気がつく。

 ――帰ってきた。

 そちらへと歩を進めながら、今更のようにそれを実感する。
 そして、まず何を言おうか、頭の片隅に置いていたそんな考えは、目の前の友人の笑顔にあっさりとその必要を失う。

「お帰り、サラ」

 言葉とともに差し出されたその手を取って。

「――ただいま、八雲」

 とびきりの笑顔で、少女は答えた。





Prologue

「――分かりました。急な話ですが仕方ありませんね」
「申し訳ありません。私達もいろいろと手を尽くしたのですが……」
 苦渋をにじませる両親に習うように、少女も小さく頭を下げる。
「謝られることではないですよ。世の中、ままならないことが多いものです」
「そう言っていただけると助かります」
「いえ、お気になさらず。――では」
「はい、よろしくお願い致します」
 席を立ち部屋を出て行く両親と、それを見送る教師。
 少女は座ったままでそれを見ている。
「……」
 からからとドアが開き、からからとドアが閉まる。
 ――そして、静寂。
 無音という名の音が静かに響く。
「……それで」
 やがてそれを打ち破るように、教師――絃子が口を開く。
「君はそれでいいのかな」
 疑問なのか、確認なのか。小さな呟き。
「別れを告げられるのは、辛いですから」
 少女――サラは淡々と答える。
 静かに微笑んで。
「……分かった。では皆には伏せておく、それでいいんだね」
 ほんの一瞬。
「はい」
 けれど確かに間を置いて。
 サラはそう頷いた。


――――"Every Breath You Take", or The place promised in our merry days.





§1 Every single day ―― Dec.20 Mon.

/1

「ねえ、八雲。最近さ、サラって何かあったのかな?」
「……ごめん、私も分からないんだ」
「そっか……八雲にも分からないんだったらしょうがないね……」
 そんな会話を交わしたのは、もう何度目だったか。
 視界の中、教室の中心で友人たちと談笑しているそのクラスメイト名前を心の中で呟く。
 サラ・アディエマス
 彼女の様子がどこかおかしい、それに気がついたのがいつだったかを思い返してみる八雲。
 それほど前ではないはずだし、逆につい最近というわけでもない。
 ――ただ。
 ただ気がつけば、いつのまにかどこか彼女は変わってしまったと、そう思う。
 具体的にどこが、と訊かれたなら答えに窮してしまうような些細な変化。
 見た目には変わらず、いつものように笑い、いつものように会話する彼女。
 それでも、八雲は思ってしまう。それがあくまで『ように』に過ぎないと。
 気づいている者は決して多くない、ひどくささやかな、けれど確かな違和感。
 そんな僅かな差異が静かに折り重なり、不安という形を成して彼女を苛む。
 何度も訊いてみようと思った。
『……サラ』
 けれど。
『ん? どうしたの、八雲』
 そこにあるのは笑顔。だから、訊けない。
 訊けばきっとそれを壊してしまうから。
『……ううん、なんでもない』
 結局、逡巡の末に紡がれるのはいつもその言葉。本当に言いたかった言葉だけが胸の奥に仕舞い込まれ、堆積し、そしてまた、不安という名の痛みとなる。
 絵に描いたように絡み合い落ちていく螺旋――その中で、思い出だけが消えない。
 あの日、野犬から護ってくれた彼女は、以来ずっと傍に在り、誰より一番近くにいると、そう思っていた。生来の性格の所為か、上手く周囲と馴染めずにいた八雲を、まるでそれが何でもないことのようにその輪に溶け込ませてくれたサラ。始めはその環境の変化に戸惑っていた八雲だったが、いつしかそれを当然のことと考えられるようになり、自然とそう振る舞えるようになっていった。
 いつだって、彼女は優しくそれを見守ってくれていた。
 そんな記憶に彩られた二人の距離、それが今の八雲には漠とした、ひどく遠いものに感じられる。
 まるで背中合わせに立って、それぞれ自分の正面に向かって指を伸ばしているような――そんな絶望的な距離。
 限りなく近くて遠い場所に身を置いて、今日も八雲は一人問う。
 ――どうしてそんな、寂しそうに笑うの?
 心の中のそれに答はない。
 クリスマスと冬休みを目前に控え、どこか浮き足立つ教室の中、ただ不安だけが澱のように降り積もる。


/2

「――なんですよ」
「ほう、それはまた……」
 放課後の部室、楽しげな会話を交わすサラと絃子の声が響く中、軽く相槌を打つだけの八雲は、伏し目がちの視線を紅茶が注がれたカップの上に落とす。そこに映るのはひどく物憂げな自分の表情。
 こういうときだからこそ、とは思うものの、そう簡単に気持ちはついてはこず、何より、なんでもないように振る舞うのが正しいのかどうか、それすらも分からない。駄目だ駄目だと考えていても、あふれた想いは自然溜息になる。
「……八雲、大丈夫?」
「あ……」
 気がつけば、こちらを覗き込んでいるサラ。当然本当のことなど言えるはずもなく、なんでもないよ、と取り繕ってから、そろそろ帰るね、と逃げるように立ち上がる。
「あれ、もう帰るの?」
「……うん、買物しなきゃいけないし」
 まだカップに半分ほど残っていた紅茶を一息に飲み干して、それじゃ私も、と一緒に席を立ちかけるサラを、付き合わせちゃうと悪いし、とやんわりと制する。
 本音を言えば、以前のように二人並んで、取り留めもないことを話しながら歩きたい、そう思う。けれど、今は出来ない。この薄氷の上を渡るような、そんな今の関係を壊してしまう――そんな気がしてしまうから。
「それじゃ刑部先生、失礼します」
 軽く手を上げる絃子に小さく一礼し、またね、とサラに声をかけてから八雲は静かに部屋を出た。
 その後ろ姿を見送ってから、ん、と軽く一伸びして立ち上がる絃子。歩を進める先は窓際、そこから外を眺める。
 冬らしく低い空は、けれどまるで何の問題もない、と言わんばかりに青く晴れ上がっている。
「なあ」
 そんな空を見つめながら、背後のサラに絃子は問う。
「幸せというのは何だと思う?」
「幸せ……ですか?」
 唐突なその言葉に少し首をかしげてから、世界平和なんてどうです、とサラ。
「それはまた随分と大きく出たね」
「でも不幸じゃないよです、きっと。私はみんなが幸せであればいい、って思ってますから」
「……そうか。じゃあ」
 そこで振り向く絃子。
 見据えるのはサラの瞳。
「もう一つ訊いておこうか――君の幸せとは何かな?」
「? それは今……」
「いや、私が訊いているのは『君自身の幸せ』だよ」
「……それは」
 重ねられた言葉にわずかに俯くサラ。
「別に今答えてくれなくても構わないよ。そうだな、では宿題にしておこうか」
 提出期限は無制限だ、と小さく笑ってみせる絃子。
「さて、そろそろ君も帰った方がいい。この時分、暗くなるのは思っているより早いものだしね」
 一瞬何かを言いかけたサラだったが、結局頷いてそのまま立ち上がる。
「片付けは私がやっておこう。それじゃ、気をつけてな」
「――はい」
 わずかな沈黙と返す言葉、そして小さな微笑み。そんなものを残して出て行くサラ、そして入れ替わるように。
「お邪魔します」
「ようこそ、笹倉先生」





Overture

 入ってきた葉子に大仰な一礼をしてから、コーヒーでも入れるよ、と絃子。
「君はインスタントで十分だよな」
「あ、どういう意味ですか、それ」
「いやいや、別に他意はないよ?」
 保温になっていた電気ポットからこぽこぽとお湯を注ぎながらのそんなやりとりに、先刻までのどこか重苦しい空気がゆっくりと払われていく。
「さて――」
 出来上がったコーヒーを葉子の前に出し、その向かいに腰掛ける。
「――どこから聞いてたのかな?」
「……分かっちゃいました?」
「まったく、立ち聞きはあまり褒められたことじゃないよ。君のことだからたまたまだろうけどね」
 少しバツが悪そうに頬をかく葉子。
「……で?」
「そうですね、塚本さんが出て行った辺りです」
 あの、とわずかに迷う素振りを見せてから問を口にする。
「何かあったんですか、あの二人」
「君の所には話はいってないのか。直接関係ないとは言え、この学校ときたら、まったく……」
 これだから、と小さく呟いてから答える絃子。
「彼女、帰るんだよ。国に」
「――え?」
「こっちにその可能性もある、って話が来たのが月の頭、本決まりになったのが一週間前、かな」
「そうだったんですか……」
「もっとも水面下ではいろいろあったんだろうね、あの子が変わりだしたのはもう少し前からだ」
 事実だけを淡々と告げていくその顔に、表情はない。
「私の方で動くように仕向ければ今みたいにはならなかっただろうけど、それじゃ意味がないんだ」
「……出発は?」
「26日、休みに入ったらすぐだ」
「それじゃ……!」
「ああ、時間がない」
 それでも信じてるからこうしたんだけどね、という笑みは様々な感情が交錯する複雑なもの。
「……それで、だったんですね」
 何かあったのか、という顔をする絃子に、塚本さんのことです、と話し始める葉子。
「最近、よく美術室で絵を描いてるんです、彼女。でも……」
「でも?」
「人物画なんですけど、いつも同じ所でやめちゃうんです――表情を描こうとして」
 顔のない肖像――それを思い浮かべ、小さく唇を噛む絃子。
「気になりますか? ……その、担任として」
「……それだけじゃないさ」
 分かってるんだろう、というその表情は寂しげな笑み。
「大切だから、傷つけたくないから知らずその相手を傷つける。……まるで何時かの何処かの誰かさんみたいだ」
「……刑部さん」
「ま、そんなどうしようもないくらいの大馬鹿者のことはいいとして、だよ」
 『刑部先生』ではなく『刑部さん』と。友として呼んでくれた友人に応えるように、なあ葉子、と絃子は言う。
「本当に取り返しがつかない、そんなことそう多くはないんだ。大抵の場合時間がどうにかしてくれる」
「……ええ」
「やり直すことだって、取り返すことだって、掴み取ることだって出来る。……でもね」
 私は、と。遠くを見るような眼差しで。
「後悔はして欲しくないんだ。出来なかったからじゃない、やれることをしなかった、そんな後悔を」
 その言葉に何も言わず頷いた葉子に、ありがとう、そう言ってからぽつりと呟く。
「得難いものだよ、本当に――」
 まったくさ、と一つ溜息。
「――親友というヤツは、ね」
 そして手放しちゃいけないんだ、と。





§2 Every word you say ―― Dec.21 Tue.

/1

「……」
 無人の美術室に、鉛筆を走らせる音だけが響く。
 スケッチブックを埋めていく黒い線を見つめながら、八雲は思いを巡らせる。
 ――サラ。
 以前何度かモデルになってもらおうとしたこともあったが、その度に、私なんか描いてもしょうがないよ、と断られてきた。それでも毎日顔を合わす間柄、姉である天満を除けば、高校に入ってから一緒に過ごした時間は一番の相手、本人が目の前にいなくても描ける自信はあった。
 ――なのに。
 思い返せば、彼女はいつだって微笑んでいたというのに。
 それなのに、その笑顔がどうしても思い出せない。
 脳裏に浮かぶのは、あの泣き出してしまいそうな笑顔だけ。
「っ……」
 そして今日も、その部分だけを残して鉛筆を動かす手は止まってしまう。出来上がったのはもう幾つ目になるのか、顔のない肖像画。溜息とともにページを繰れば、粛々とそれが並んでいる。
 嘘でもいいから描いてしまえ、とそう思い、けれどそれは出来ない、といつも踏みとどまる。
 そうしてしまえば、今までのすべてさえ嘘になってしまいそうで。
「……サラ」
 やり場のない想いを胸にその名を呟いたとき、ふと視線を感じる。
 ここのところ、こうして絵を描いているとどこからか毎日感じられるそれ。決して悪意によるものではなく、じっと静かに見守っているような眼差し。
 ただ、その主だけがいつも見つからない。どうせ今日も、そう思いながら辺りを見回してくるりと振り向いた視線のその先、教室の入り口に、いつもなら影も形も見えない人の姿。
「……笹倉先生」
 そこで微笑みながら小さく手を振っていたのは、笹倉葉子その人だった。

「最近塚本さん頑張ってるな、って思ってね」
 邪魔しちゃったかな、と教室に入ってきた葉子は、そんなこと、という八雲の言葉に、ありがとう、と言ってからそこかしこに立てかけられた絵を眺めながら話し始める。
「あ……じゃあいつも見に来てるのって先生なんですか?」
「毎日じゃないけどね。塚本さんがよく来てるのは知ってるよ」
 それはつまり、何を描いているのかも知っている、ということ。胸元にスケッチブックを抱える八雲の手に、わずかに力がこもる。けれど、葉子は何も訊かず、何も言わない。
「……あの、先生」
「何かしら」
 それが、まるで自分を待っているようにも思えて、自ら話し出す八雲。
「先生は描きたいものが描けなくなったこと、ありますか?」
「……それは技術的に、じゃないんだよね」
「はい」
 そうだな、と言いながら、ゆっくりと八雲の前に腰掛ける葉子。
「あるよ、私にも。どうしても描いたものに納得出来なくて、こんなはずじゃないって」
「……どうしたんですか、そのとき」
 おずおずと、不安と期待の入り混じった瞳で見上げるようにして尋ねる八雲。対する葉子は瞳を閉じて、思い出を辿る。
「描いて描いて、好きだったはずの描くことが嫌になるくらいまで描いて、そしてね」
「……そして?」
 さらりと。
「描くのをやめちゃった――なんて、何かの受け売りみたいだけどね」
 ほら、あの魔女の女の子の、と微笑む葉子。
「やめちゃった……んですか?」
「完全に、じゃないけどね。ただ、離れてみるのもいいんじゃないか」
 懐かしそうな表情、遠くを見つめる瞳。
「近すぎても見えないものってあるから、そんなこと言われてね、ああそうなのかなって」
 あれは効いたな、と小さな呟き。
「駄目押しはね、それは君が本当に描きたいものなのか、もう一度ゆっくり考えてみることだ、これかな」
「本当に描きたいもの……」
「そのとき思ったの、私はこの人を描いてみたい、自分の持てるすべてで……なんてね」
 幸せそうに笑う葉子。それは、為すべきことを、為せることを、為したいことを見つけた者の笑み。
「絵を描くっていうのはね、とても難しくてとても簡単なこと、私はそう思うの」
「……はい」
「そしてね、自分が傷つくことも、相手を傷つけることも、どちらも恐れないで踏み込む勇気が必要なときもあるの」
「踏み込む、勇気」
「……私はそれに助けてもらったから」
 これは絵に限ったことじゃないけど、そう話を結ぶ。
「なんだか、話し過ぎちゃったね」
「いえ、そんなことありません」
 ありがとうございました、と頭を下げて荷物をまとめ始める八雲。
「いいえ、どういたしまして。今日はもう帰るんだ」
「はい。……私も考えてみます、いろいろ」
 それでは、と教室を出て行こうとしたが、あ、と思いついたことがあって足を止める。
「あの、先生。さっきのお話の方とは今も……」
「ええ、今もちゃんと友達よ。一番大事な、ね」
 葉子の答は、やはり笑顔とともにあった。


/2

「今日は先輩だけですか?」
 いつものように――ただし一人で――部室を訪れたサラが、文庫本に目を落としている晶にそう声をかける。もっとも、今日『は』と言ったものの、いつも通りと言えばいつも通りの光景である。
「ウチの方針は開店休業だからね」
 それに対しては別段何も思っていないのか、冗談とも本気ともつかないような答えを返す晶。
「いいんですか? 部長がそんなこと言ってて」
「いいんだよ。来る者拒まず去る者追わず、本気でお茶をやりたいなら教えるけど、そこまでじゃないでしょう?」
「うーん、そうですね。あ、でも来る者拒まず、って花井先輩は……」
「彼は別格」
 どうやらこれは本気らしく、にべもなく言い放つ。そんないつもながらの態度に苦笑しつつも、どうしてなんです、と尋ねてみるサラ。しばらく考えて晶の出した答は――
「――なんとなく」
 これ以上ないというくらいに『らしい』解答に、今度は思わず吹き出してしまう。
「なんとなく、ですか。それじゃしょうがないですね」
「そ。まあ、あれくらいじゃ懲りないよ、彼」
 それはそれで楽しいのか、小さく――本当に小さく笑みを浮かべて、再び手にした本に目を落とす。
 一方、どこか手持ち無沙汰なサラ、なんとはなしに備品の点検や整理をしてみるものの、気分はどこか落ち着かない。結局それも数分で終わってしまい、溜息混じりに椅子に腰を下ろす。
 部屋に在るのは静かなページをめくる音だけ。これもまた、ある意味で以前ならよくある光景、決してそれを不快に感じることなどなかったはずなのに、今のサラはそこに居心地の悪さを見てしまう。
「先輩、何読んでるんですか?」
 結果、しばらく迷ってからもう一度晶に声をかける。うん、と返事をした晶は、どう答えるかしばらく考えた様子だったが、やがて映画のノベライズ、と口にした。
「映画ですか。どんなお話か訊いてもいいですか?」
「そうだね……」
 かいつまんでそのストーリーを話す晶。
 人々が争うのは『怒り』という感情を持つからである――そんな理由から、薬物により感情の発露を押さえ込むことで、恒久的な平和を実現しようとする社会。一見それは成功しているようで、けれど一方では薬物摂取をやめ、芸術を始めとした『感情』を必要とする行為を愛でる者たちを、一方的に『排除』していく。
 その中で、『排除』の実働部隊の一員であった主人公は、友人がそんな『反乱者』の一人であったことを知り、彼を自らの手で『排除』してしまったことから、社会に対し疑問を持ち、やがて反乱の中に身を投じることとなる――
 概略をまとめるならば、このようになる。
「どう思う?」
 語り終えた晶が問うてくる。いつものポーカーフェイスで見つめるのは、サラの瞳。
「よくある話……なんて言っちゃいけないんですよね」
「うん、これだけならそうかもしれないね」
 恐る恐る、といった様子で答えたサラを肯定する晶。ただし、でもね、と言葉は続く。
「この世界を作り替えるために、結局主人公は戦って敵を『排除』するの。それに、物語はこの反乱が起きたところで終わってる。それが上手くいくのかどうかは誰にも分からない。ただ、一つの『戦争』が始まった――分かるのはそれだけ」
 彼女にしては珍しく饒舌に、淡々と言葉を綴っていく。
「感情がなければ争うこともない、でも笑いあうことさえ出来ない」
 ――謡うようなその言葉は。
「けれど笑いあうためには傷つけあうことも覚悟しないといけない」
 ――小さな棘のように心に刺さる。
「ねえ、サラ――」
 ――そして。
「――どちらが正しいと思う?」
 誰と争うこともなく、けれど誰とも交わることなく生きていく。
 誰と争うとしても、それでも誰かと交わり生きていく。
 ――そのどちらが正しいか、そんな問いかけ。
『みんなが幸せであればいい、って思ってますから』
『――君の幸せとは何かな?』
 昨日のやりとりが脳裏をよぎる。鈍い痛み。
「私は……」
 わずかにうつむき、知らず拳を握りしめたサラが、それでも答えようとしたとき。
「ごめん、意地悪だったかな」
「え……?」
 晶の方が先に口を開く。
「これはね、どちらが正しいかじゃないと思うの、本当は。ただ、選ぶというのがどういうことなのか、それだけ」
 どちらを選んだとしても、何も傷つけずにいることは出来ない。それでもどちらかを選び、進んで行かなくてはいけない。そういうことなのだと、晶は言う。
「だからさっきの質問はちょっと意地悪だね。答えられないのも分かる」
「……先輩」
「でもね、それを考えるのは悪いことじゃないと思う」
 そう締めくくり、それじゃ私は、と立ち上がる。
「あなたはどうする?」
「……もう少しだけ、残っていきます」
「……そう。それじゃ戸締まりよろしくね」
 はい、というサラの返事を聞いて、晶は出て行き、一人部屋に取り残されるサラ。窓の向こうの空には、いつのまにか夕闇の翳りが足音をひそめて忍び寄ってきていた。





Prelude

 ――美術室。
 八雲の姿が見えなくなるまで見送ってから、椅子に腰を下ろす葉子。
「……塚本さん」
 頑張って、と小さな囁き。
「今の私が描きたいのは、あなたたちの笑顔だから」
 宵闇が遠く忍び寄る教室の中で、その言葉だけが確かに響く。

 ――校庭。
 昏い蒼の混じり始めた、けれどまだ目の醒めるような赤光の中、立ち止まって校舎を振り返る晶。
「……ごめん、サラ」
 紡がれたのは謝罪の言葉。
「私には何も出来ないから……」
 その先に続く想いはもはや放たれることなく仕舞い込まれ、晶は再び歩き出す。

 ――冬の宵。
 それは驚くほどに素早く空を黒く溶かしていく。
 音もなく、ただ静かに――





§3 With every step you take ―― Dec.22 Wed.

/0

 ――その日。
 前日の雨天という予報とは裏腹に、空は朝から素晴らしいくらいに晴れ上がっていた。
 蒼く、ただ蒼く――


/1

「っしゃ、終わりっと」
「あー! そこまだでしょ!」
 授業はなしの、やることは大掃除のみ、加えて翌日が祝日ともなれば――何をか況や、という状況。掃除もそこそこに飛び出していく者、それを連れ戻す者、様々な駆け引きと高々度の情報戦がその裏では行われている、とはもっぱらの噂。
 微笑ましいと言えば微笑ましい、そんな光景にわずかに顔を綻ばせる八雲。しばらく続いていた鬱々とし気分を変えさせたのは、やはり昨日の葉子との会話。

 ――歩きだそう。

 ただ待っているだけでは変えられないことがある。だから、たとえそこに何があっても。

 ――決めたから。

 なら、後は最初の一歩を。

「サラは今日何か用事ある?」

 その距離を縮める為に。

「ううん、大丈夫だよ」

 記憶の中の姿に手を伸ばすように。

「それじゃ、二人でどこか行こうか」

 距離を置いてみるのもいい、葉子はそうも言った。
 けれどそれは逃げ出すということではなく、一度近づけるところまで近づいて、それからだと。

「――うん、そうだね」

 久しぶりに、そう笑うサラ。
 けれど、やはりそれは八雲が見たかった笑顔ではない。
 じくり――滲むような鈍い痛み。

 ――でも。

 八雲は思う。
 もう逃げたりはしないと。
 それが、小さい、けれど確かな、彼女の誓い。


/2

「ホント、なんだか久しぶりだよね、こういうの」
「……うん」
 そして、一日は終わりを告げようとしている。
 最後に、とカフェテリアで軽い休憩を取る二人。時刻は既に黄昏時、普段なら燃えるような茜色に染まる空、けれど今あるそれは、思い出したように予報を追いかけて、天を覆うのは鈍色の雲。
 じきに降り出す――そんな空を窓越しに見上げながら、もう一度だけ考える八雲。
 学校を出た二人が向かったのは、駅前のメインストリート。学校帰りに高額の持ち合わせなど当然あるはずもなく、お決まりのウィンドウショッピングをしながら、幾つかの店を巡った。
 洋服、アクセサリ、エトセトラ。目を輝かせてそれらを見てまわり、喜々として会話するサラのその姿は、八雲にとって本当に随分と久しぶりに見るかつての彼女の姿で。

 ――このままでいいんじゃないか。

 そんな思いが脳裏をよぎった。
 その向こうに何かがあるのは絶対に確か、それでも目を瞑ってしまいさえすれば、こんなにも幸せだから。
 何事もなかったように。
 当たり前のように。
 あの騒がしくも楽しい日々を。

 ――それでも。

「ねえ、サラ」
「ん? 何?」
 
 ――果たすべき誓いが、ある。

「……少し、歩こうか」


 昼間と同じその道は、しかし低く垂れ籠めた空に引きずられるように、どこか沈んで見える。クリスマスを目前にした意匠や電飾の色彩だけが、現実と乖離したように自己主張をしている。
 そんなちぐはぐのモザイク染みた通りを、サラを背後に八雲は黙々と歩く。初めこそ言葉を投げかけてきていたサラも、彼女の雰囲気に何かを感じ取ったのか、今はただ黙ってその後に続いている。
 やがて辿り着いたその場所は。
「……学校?」
 どうして、という顔で疑問を口にしたサラにも足を止めず、そのまま中へと歩を進める八雲。
 ――そして。

「……ここで初めてサラに逢ったんだよね」

 中庭の中心で、ようやく口を開く。

「それまでは、ただのクラスメイトだった。でも、あの日からそうじゃなくなったよね」

 そう言って瞳を閉じる。
 目蓋の裏には色褪せない光景。
 吠える野犬。
 腕の中の伊織。
 ――とても大きく見えた、サラの背中。

「『サラって呼んで』、そう言われたのが嬉しかった。友達になれたって思えたから」

 きっとそれが、どこか浮世離れしていた彼女が周囲に溶け込んでいく分岐点。

「あれからずっと、サラのこと友達だって思ってる」

 それは今も。

「……だから教えて」

 そしてこれからも。

「――サラ、私に何か隠してる」

 その言葉に、うつむいていたサラの肩がびくりと震える。

「私じゃ力になれるか、役に立てるかどうか分からない。でも友達だから」

 一言毎に、突き刺さるような痛みを訴える心。
 けれど、もう逃げないと決めたから。

「今じゃなくてもいい、でも必ず聞かせて」

 返事はない。
 それでも。

「私は……私はずっと待ってるから」


/3

「私は……私はずっと待ってるから」

 そう言った八雲の顔が見られない。
 ――どうしても、うつむいた顔が上げられない。

 何かを言おう、そんな思考は胸の奥で空回りし続ける。
 ――そもそも、一体何を言おうというのか。

 どれくらいそうしていたのか、地面だけが広がるその視界の片隅で動き出す八雲。
「……っ!」
 ようやく上げられた顔、そして見えたのは去っていく彼女の姿。
 けれど、待って、という言葉は声にならなず、かは、という吐息だけが空気を揺らす。
 伸ばした指は空を掴み。
 踏みだそうとした足は一歩も動くことなく。
 ただその後ろ姿だけが小さくなっていき――消える。
「や、くも」
 くずおれそうな身体からようやく放たれたその声は、まるで自分のものではないかのように歪に捻れ、届けるべき相手に届くことは決してない。
 ――ぽつり、と。
 そんなサラの上に、遙か空から水滴が落ちてくる。ぽつり、ぽつりと、様子を窺うようにしていたそれは、やがて数を増し、強さを増し、途切れることのない雨へと変わる。
 厚い雲の向こうで沈み往く陽に翳り往く景色。
 その中で、サラはただ立ち尽くす。
「――雨、止まないや」
 遠く聞こえる車の音。それだけを残して、不規則という名の規則に乗った水滴の奏でる旋律で、世界は閉ざされていく。
「……八雲」
 呟きはそんな雨音に掻き消され、何処にも届かない――筈だった。
「ときには雨に打たれてみるのも悪くはないと思うが……どうもそういうわけではないみたいだね」
 不意に背後から聞き覚えのある声。一瞬息を詰まらせ、そしてゆっくりと振り向けば。
「……刑部先生」
 そこにあったのは、深いブルーの傘を差して佇む絃子の姿だった。奇遇だね、と本気か冗談か分からないいつも通りのその口調は、責めるでもなく、問い詰めるでもなく、ただサラへと向けられる。
「さて、こんなところで立ち話もなんだし、何よりこの季節にそのままではね」
 行こうか、そうすっと差し出された傘は。
「……はい」
 ――とても大きく見えた。


/4

「取り敢えず風呂を沸かしてくるよ。しばらくそれで我慢してくれ」
 道すがら、サラのことをおもんばかってなのか一切口を開かなかった絃子。家に到着したあとの第一声はそれだった。その言葉に従い、手渡された大きなバスタオルを頭からぼっくりとかぶり、濡れた衣服を脱ぐサラ。
「……お邪魔します」
 そう言って足を踏み入れたのはリビング。シンプルな内装に、目立つものと言えば大型のテレビくらいのもの。ある意味で実践主義とも言える絃子には相応しい様子である。
 ――と。
「あれ……?」
 そんな中、場違いな空気を放っている物を見つけるサラ。
 ――ぬいぐるみ。
 360°、どこから見てもそうとしか見えないそれは、部屋の片隅でひっそりと愛嬌を振りまいている。
「悪いね、もう少し……っと、どうかしたのかな?」
「あ、いえ……」
 準備を終えたらしく、こちらへと戻ってきた絃子に尋ねられ、なんとなくバツが悪く誤魔化してしまう……が、その視線を辿って言わんとすることは悟られてしまったらしい。
「ああ、それか。私じゃなくて居候のだよ」
 変なところで寂しがりなヤツでね、とやや呆れたような表情。
「他に住んでる方がいらっしゃるんですか?」
「いらっしゃると言うか……ま、さっき部屋にきっちりと押し込んでおいたから気にしないでくれ」
「はあ……あの、ご挨拶とかは……」
「いらないいらない、そんな気をつかう必要は微塵もない。それに、その恰好は些か刺激的だと思うよ」
 今更のように自分がバスタオル一枚、などというとんでもない恰好でいたことを思い出すサラ。同性である絃子の前とはいえ、頬が熱くなるのを感じる。
「着替えは適当に見繕っておくよ。若干問題がないわけでもなさそうだが……」
 何を見てそう言ったのか、サラが追った視線のその先は――
「……先生、ひどいです」
「いやいや、客観的な事実、というやつだよ。それより」
 ふ、と表情を崩す絃子。
「ちゃんと笑えるじゃないか。安心したよ」
「――あ」
 そこで初めて、どういう訳か自分が安心していることに気がつく。あのとき八雲の背中を見送った不安は、決して消えてはいないものの、今心の中の大半を占めているのはそれではない。
 それが何故か――その理由を考えて、一つのことに思い当たるサラ。
 今、自分はこの人に頼っているのだと。
 皮肉めいた物言いの裏にある優しさ。
 突き放したようでそばにいる距離感。
 言葉にしてしまえばどうということのないそれは、つまり刑部絃子という人の魅力。それは誰しもが持っているわけではない、不思議と人を惹きつける力。
「そんな風に頼ってもらえると、教師冥利に尽きるというものだよ」
「先生……」
 ゆっくりと、独り抱え込んでいた何かが解けていく感覚。
「さて、それじゃどのみち帰りは遅くなる。電話の一つも入れておくといい」
 くい、と指差された電話を前にして。
「……一晩だけ泊まっても構いませんか?」
 知らず、サラはそう尋ねていた。限られた時間の中、もし何かを変えようとするなら今しかないと、直感がそう囁いている。
「ふむ、君がそれでいいと言うなら私は別に構わないよ。ただしちゃんと許可はもらうこと」
 はい、と頷いて、一番馴染みの、けれど実際にかけることはそう多くない番号をプッシュする。
「あ、お母さん? ……あのね、今日友達の家に泊まるんだけど」
 友達、という単語にわずかに眉をひそめる絃子。一方、サラはそんな様子にも構わず、電話の向こう側に告げる。
「――塚本さん」
「……何?」
 思わず呟いたその言葉にも、目を瞑って。
「うん――うん、それじゃ」
 かちゃり、と受話器を置いた。
「……嘘、ついちゃいました」
 えへへ、とサラは笑った。自分の意思で、自分のために。
「やれやれ、そんなことまで教えたつもりはないんだがな……」
 苦笑混じりの溜息を一つの絃子、そして遠くからは小さな電子音。
「ほら、さっさと入ってきたまえ。夜は短い」
「はい!」


 ――と、そうは言われたところで、いざ入浴するとなれば手を抜けないのが女の子。サラがあがってきたのは随分と経った後。そして絃子も絃子でそれを読んでいたのか、計っていたようなタイミングで出来上がる紅茶。
「君が淹れるのにはとても敵わないけどね」
「……おいしいです」
 微笑みとともに差し出されたそれは、確かにとてもおいしくて――とても暖かかった。
 しばらくの間、無言でそれを味わう二人。
 そうやって一息ついてから。
「もう大丈夫、かな」
 正面からサラを見据える絃子。
 ゆらりと鎌首をもたげる不安。
 それでも。
「……はい」
 サラはしっかりと頷いた。
 そして――


/5

 ――雨が、落ち始める。
 言うべきことはすべて言った、そう思う八雲。けれど、そこにあるのは達成感などではなく、ただ斬りつけられたように痛むその胸。
 ――こんなにも辛いことなんですか?
 心の中、葉子に向かって問う。
 顔を背けず、逃げずに踏み込んだ先。
 うつむいたままのサラの姿。
 そうさせてしまった自分。
 間違ってはいないと、そう思うのに。
 ――雨は降り続ける。
 鞄を開ければ傘はある。それでも、八雲は差そうとはしない。
 そうしていれば、誰にも涙を見られることはないから。
 だからただ、冷たい雨の中を歩き続ける。
 黙々と。
 まるで、それが犯した罪への罰だとでもいうかのように。


「……ただいま」
 家に帰り着くころには、上から下まで完全に濡れ鼠になっていた。どうやったら汚さないで入れるか――回らない頭でそんなことを考えながら、ぼう、と玄関先に立ち尽くす。
「あ、お帰り八雲。遅かった……」
 とてとてと奥から小走りに出てきた天満の言葉が途中で消える。
「八雲……?」
「……どうしよう、ねえさん」
 その姿を見て、張りつめていたものがふっと途切れる八雲。容赦なく降りしきる氷雨に感覚をなくしかけていた足は、もはや身体を支えることなく、ゆっくりと前に倒れかけ――
「八雲っ!」
 ――そして天満に抱きとめられる。
 決して大きくはないその体躯で、やわらかく、しっかりと妹の身体を抱きしめる天満。
「姉さん、濡れちゃう……」
「……八雲だってびしょびしょだよ」
 背に回されたその手に、ぎゅっと力がこもる。
 冷えた身体を暖めるように。
「ね、八雲」
 耳元でそっと囁かれる言葉。
「何があったか、全然分からないけど」
 それでも、と。
「大丈夫だよ。私には分かるもん」
「……どうして」
「――だって、私は八雲のお姉ちゃんだぞ」
 天満は微笑む。
 誰よりも、何よりも。
 強く、優しく。


 ――そんな風にして一段落がついて。
「ちょうどお風呂沸いてるから入っちゃって」
「うん……でも姉さんも……」
 言われて、あー、と自分の姿を見回す天満。当然と言えば当然ながら、ずぶ濡れの八雲を抱きしめたのだから、彼女もまたずぶ濡れである。
「私は後でいいよ、八雲の方が冷え切っちゃってて大変だもん」
「……でも」
 こんなときでも姉のことを第一に考えてしまう八雲、何はなくとも妹第一『お姉ちゃん』、拮抗する状況。
「――あ」
 と、そこに妙案を思いついた、という様子の天満。
「だったらさ、一緒に入ればいいんだよ!」
「え……? 姉さん、それは……」
「うんうん、そうだよ。ほら行こっ、八雲!」
 言うが早いか八雲の背を押して目的地へと一直線。こうなるとどうしたところで止められない、と為すがままの八雲。
 ――そして結局。
 湯船に首までしっかりつかる八雲の目の前に、鼻歌交じりに身体を洗う天満がいたりする。身体を洗う、そんなどうということもない行為も、天満がやれば不思議とこの上なく楽しそうに見えて、心に安堵を覚える。
 落ち込むこともあれば、勘違いは数知れず、それでも持ち前の底なしの明るさで、いつでも前向き一直線――そんな姉の姿に、絶対に敵わない、そう思う八雲。
 『お姉ちゃんだから』――それだけで親身になってくれるこの人は、たとえ家族ではなかったとしても何かの理由で、或いは何の理由もなく、助けてくれるに違いない。
 一番近くにいる一番大切な人――それが塚本八雲にとっての塚本天満
 だから。
「今日は早く寝た方がいいよ」
 風呂上がり、そう言って部屋を出て行こうとする彼女を。
「待って、姉さん」
 自然、呼び止めていた。
 誰よりも大切な人だから、心配はさせたくないから。
「もう、大丈夫なんだよね」
 そんな表情を、正面から受け止める天満。
「……うん」
 しっかりと頷く八雲。
 そして――


/6

 そして――

「それじゃあ――」
「それじゃ――」

 ――錆びついた歯車が再び回り出す。

「――話を聞こうか」
「――話、聞こうか」





Variation

 ――深夜、学校。

 冬の嵐が踊る屋上に、一つの影が在った。

 影の主は一人の少女。

 その長い黒髪は吹き荒ぶ風にも揺れることなく。
 その白い肌は打ちつける冷たい雨にも濡れることなく。

 まるで刻を止めたかのように、微動だにせず少女は独り。

 その瞳は閉じられて。
 その耳だけが澄まされる。

「聞かせて」

 ごう、という風の中。

「あなたの答を」

 囁くような声だけが響く。

「――ヤクモ」