No Title

一巻を読んだ時点で、旅に道連れが出来るのは完全に想定外でした。
そして、二人がいろんなことをきちんと自覚した上で、それでも旅を続ける、というある意味で大人の展開も。
だからまあ、こういう話ばかりになってしまうわけで。
どうしてどうして、今の二人の関係の方がよほど素敵に見えます。


 ようやく言えたのか、あるいはついに言ってしまったのか。
 自分でもそれが分からず、ロレンスはただ立ち尽くしていた。
『――俺と一緒に来ないか』
 北の森まであと一日ほど。いつまでも終わらないように見えながら、その終点だけはこれ以上ないくらい確かに定められていた旅の、最後の晩。冗談のように幾度となく交わしたその会話を、冗談ではなく交わした、最初の晩。
「ぬし」
 それでも、ホロのまとう気配はいつもとまったく違いはなかった。
「今、ひどく残酷なことを言ったと分かっておるかや」
「……ああ」
 彼は人で、彼女はそうではない。もし彼がそのすべての時間を捧げたとしても、彼女にすれば共に歩むことの出来る時間はあまりに短い。
「ぬしが老いさらばえ、わっちより先に――先に旅立つのを見届けろと言うておるんじゃな」
「……ああ」
 いつの頃からか、ひょっとすれば出会ったその最初から、ずっと考えていたことだった。どうすれば、この気紛れで、強く、儚い、賢狼でも神でもない、ホロという名のただの娘と一緒にいられるのだろうかと。
 ついぞその答はなく、この瀬戸際に及んで、すべてを台無しにするような言葉を放ってしまったロレンスは、ただ頷くしか他にない。なにをしたところで、既に紡がれた言の葉は消えはしない。
 そして、そんな彼の心中など気にもかけない様子で、諭すように、からかうように、変わらぬ口調でホロは語る。
「それにな、ぬしよ。ぬしとわっちの子はどうするつもりかの?」
「な……!?」
「くふ。なんじゃ、そこは考えておらんかったのか。夫婦になるとはそういうことじゃろ? 違うかや?」
 子をなさん生き方もありゃんせな、くつくつと笑いながらそんなことを口にするホロに、ロレンスはなにも言えなくなる。
 つまりは、彼女はちゃんと先まで見えていたのだと。
「なんせな、わっちとぬしの子ぞ。生まれてくるは、人の血を引く神の子か、神の血を引く人の子か――いずれ、その歩く道は険しかろうよ」
 刹那の感情に流されることは誰でも出来る、大切なのはその先に一体なにが待っているのか。永い時を歩んできた彼女だからこそ、些細な気紛れが生む些細とはいえない結末を、数え切れぬほどに見てきたのだろう。そんな、分かっていたはずの現実を突きつけられる。
「……分かった、ホロ」
 今夜のことはなかったことにして、あと一日、旅の終わりまでまた楽しくやろう、だから、もう。
「もう、やめ」
「しかしのう」
 思いがけず優しい声が、彼の言葉を断ちきる。はっとして顔を上げれば、そこにあるのは意地の悪い笑みなどではない。
「ぬしは聡い。そんなことを言えばどうなるかくらい分かっておろうし、だからこそ今まで口にせんかった。そうよな?」
 くすくすと笑う彼女に、ここで頷いたら負けだと思いながらも、結局頷く以外に道のない自分がいる。そんないつも通りの空気に、ロレンスは泣きたくなる。泣きたくなるほど、嬉しい。
「そのぬしにな、道を誤らせてしまうとは――」
 くふ、と。口の端を上げた意地の悪い笑み。
「――わっちも罪な雌じゃのう」
「……馬鹿、自分で言うな」
 だから、彼もまたいつも通りに言葉を返す。これできっと、明日を正しく迎えられるだろう、そう思って、
「自分で言わんと、ぬしは言ってくれりゃせんじゃろ」
「……は?」
 そう思ったのに、いつもとは違った色をした声が聞こえた。まったくな、呟く横顔は、はにかんだような、初々しい少女のそれで。
「賢狼と呼ばれて、神に数えられたわっちでもな。……やっぱり『雌』じゃ」
「ホロ……?」
 まるで狐につままれたような顔をしている彼を尻目に、さて、と彼女は背を向ける。
「返事は明日でよかろ。なに、わっちの帰る森はすぐそこな、ぬしの足でも一日あれば問題ないじゃろ」
 だから、と。後ろ姿のままで微笑む。
「もうちっと先のことを考えてみてくれりゃんせ。頼みんす」
 それだけを言い残し、少女の姿が消える。着古された毛皮がふわりと地面に落ちて、放たれた矢のようにまっすぐ走っていく獣の姿見えた――ような、気がした。
「……ホロ」
 なにもかも、これまでの旅さえ幻だったように、ロレンスは一人になっていた。ただ、地に落ちた毛皮だけがすべてが現実だったことをささやかに訴えている。
「ホロ」
 ここで引き返して構わないと、彼女はそう言っているのだろうとロレンスは思う。旅はもう終わった、夢からさめるなら今だろう、と。
 それでも。
「行くからな」
 彼はその足を踏みだした。
「そうさ、借りはまだ返してもらっちゃいないんだ」
 果たして自分と彼女と、どちらがどれだけ借りを作っているのか。思い返せばきりのない旅路は、やはり夢ではなく現実だ。積み重ねた過去は、つまりは積み上げることの出来る未来でもある。
「どこまでだって取り立てにいってやる、そう誓ったんだからな」
 一人頷いて見据えるのは、動かない星が輝くその真下。静かに広がっているだろう、ヨイツの森だ――