No Title

なんかこう、桜というのはイマイチ似合わない西洋風世界なのですが。
まあ、それはそれとして。
唯一別れを扱っていない作。


 春じゃのう、と。
 いつにも増してのんびりとした口調で呟いたホロの視線の先に、真白な花びらが舞っていた。
 ゆらゆらと。
 はらはらと。
 静かに舞い落ちるそれは、厳しい冬が過ぎ去って穏やかな季節がやってきたことを告げいていた。
「そうだな、もう春だ」
 だから、返すロレンスの声も明るい。ときに移動すらままならなくなる氷雪の季節は、行商人にとって相性が悪い。下手を打てば右も左も分からない場所で立ち往生、そしてそのまま――そんな話も決して珍しくはない。
 もちろん、それは裏をつけば需要のある物は普段とは比べものにもならない高値でさばける、ということでもあるのだが、そんな命と金を天秤にかけるようなまねは彼には出来ない。商売人は臆病すぎるくらいでちょうどいい、堅実に生きるための鉄則である。
 とはいえ、それだけでは成功出来ないのも商売の摂理で、だからこそ彼も危ない橋を渡ることはある。幸運の女神の後ろ髪は、思いの外逃げ足が速い。そうやって飛び込んだ騒動が、あのパッツィオでの出来事だ。
 あれからもう半年かと、ロレンスは思い。
 あれからまだ半年かとも、ロレンスは思う。
 いろいろなことがあって、けれどそれでも変わらずに、狭い荷馬車の御者台で隣を埋めてくれる小柄な姿があることに、少し不思議な気分になる。
「時の流れは早いものよな」
 そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、ホロはゆるゆると言葉を紡ぐ。
「ぬしがおると退屈せんですむ。一人じゃこうはいかんせん」
 続く忍び笑いに、どこまでが本気でどこからがそうではないのか、相変わらず見抜けないロレンスは、聞こえなかったふりをする。対するホロは、別段気にした素振りも見せず、代わりに珍しく小さな溜息をつく。
「そうじゃ、もう半年。ぬしと会ったあの頃は、まだ麦穂が揺れておった」
 吐息を追いかけるような呟きは、遠い空に向けられていた。遙か彼方、今はもう決して届かない場所へ、それでもなにかを届けようとするように。
「お前、パスロエのことを」
 そこまで口にしてからしまったと思うが、既に遅い。言葉は音を伴って放たれている。彼女の耳へと。だが、あからさまに動揺しているロレンスに対し、気にするでないと苦笑して、ホロは小さく肩をすくめるのみ。
「なんだかんだと言うてもな、わっちは長いことあそこにいたんじゃ。そう簡単に忘れるなんてできんせん」
 それにな、と。ホロは続ける。
「やっぱりわっちはあの村が好きじゃ。たとえどんなかたちでもな、わっちのことを覚えてくれとるやつらがおって、それに」
 友人がおったところじゃからの。
 言葉はそう結ばれる。
「……ホロ」
 迷いのない口調と、それとは裏腹の寂しげな笑み。思わず口を開きかけたロレンスは、けれど言うべき言葉が見つからず、結局彼女の名だけを呟いて、再び口を閉じる。
 こんなとき、彼はひどく自分を情けないと思う。この半年、幾度かそんな機会はあって、そのどれもが相応しい言葉の見つからないまま、幕を下ろしている。貧弱な語彙と言われるのも致し方ない、知らず余計な溜息をもらしてしまう。
「でも、な」
「……ん?」
 そんな顔をするでない、そう言い聞かせるようにホロが笑う。
「あそこを出ると決めたのもわっちじゃ。忘れはせんが、帰りたいとは思ったりせん。わっちの帰る場所はこの先ぞ」
 力を込めた視線が見据えるのは、遙かな北の地。
「それに、旅に出んかったらぬしにも会えんかったんじゃし、の。のう、ぬしも嬉しかろ? わっちのような可愛い娘と旅が出来て」
「俺は、別に……」
 またからかわれているぞと素直に頷けない自分に、これまたうんざりするロレンス。そして当然のように、その『可愛い娘』は追い打ちをかけてくる。
「なんじゃ、嬉しくないのか。わっちはぬしに会えて、こんなに嬉しいのに」
 言うなり、しなだれるようにしてもたれかかってくるホロの身体。その確かな温もりを、やっぱり嬉しいと感じてしまう自分にしっかりしろと言い聞かせながら、お前な、いい加減にしろと――
「――嬉しい」
 ――言おうとした台詞は、そんな小さな呟きを耳にしただけで封じられてしまう。
 結局のところ、彼女に決して勝てない、出会ったときから続いている不文律をあらためて認識させられて、ロレンスは一人かぶりを振る。その隣からは、くすくすと笑い声。つとめて聞こえないふりをして、ロレンスはゆっくりと荷馬車を進ませ始める。いつものように。

 そんな二人の頭上で、ゆらゆらと、はらはらと、白い花びらが舞っている。静かに降るは穏やかな春の陽射し。その中を、小さな笑い声が響いている。いつまでも、いつまでも。